① 横浜港ドイツ軍艦爆発事件

第二次世界大戦中の日独の人物交流及び物資や技術交流は、独ソ開戦以降、海上輸送が主となり、横浜、神戸、シンガポール、バタビア(ジャカルタ)及びスラバヤなどがドイツへの主要な物資積出港とされた。大戦初期に用いられたのが、ブロード・ランナー(Broad Runnner)と呼ばれる商船利用の封鎖突破船で、日本からヨーロッパに向かうのが、「柳輸送」、ヨーロッパから日本に向かうのが、「逆柳輸送」と呼ばれた。

最初の封鎖突破船は、1941年2月に日本を出港し、以後、相互に輸送が行われたが、1942年に入り、暗号解読等により、待ち伏せ攻撃による被害が増大しはじめた。これにより、ドイツ本国への帰国が困難となったドイツ艦船は、日本にとどまり、南方と日本の間での物資輸送に協力した。(1)

そうした情勢下、1942年11月30日、神奈川県横浜市の横浜港新港埠頭内で、いわゆる「柳船」の1隻であったドイツ艦船「ウッカーマルク」の爆発事故が生起した。同船は、航空燃料を横浜港に運び、大桟橋に係留され油槽清掃中の11月30日13時40分頃に爆発を起こし、港湾施設や近くに停泊していた船舶が被害を受けた。


ドイツ艦船「ウッカーマルク」 (2)

侍従武官であった城英一郎は、日記において、「横浜港在泊中の独逸特巡猶給油艦ウッケルマルク号内に爆発起り、附近の独乙船二隻及陸岸倉庫等に火災。独乙人死傷約二〇〇、附近海軍徴傭船一隻、小被害。一二月一日、武官より大臣の上聞書により上聞 」(3) と当時、記録した。また、昭和天皇の実弟、高松宮宣仁親王は、「横浜岸壁デ独ノ「揮発油船」ガ爆発シ、横付シテヰタモ一ツノ「レーダーリー」十号艦 ガ沈没シ隣リ二隻火災、桟橋ノ倉庫ハ災燃シタトノ騒ギアリ。第五列ノ仕業ナルベシ。正子、病院ニ収容セル独国人一六〇名バカリ 。」(4) と謀略を疑っている。


炎上する「ウッカーマルク」(手前)と「トール」(奥) (5)

最終的には、ドイツ海軍の将兵ら61人、中国人労働者36人、日本人労働者や住人など5人の合計102名が犠牲になったが、事故の原因は、戦時中であったこともあり、現在に至るも明らかとなっていない。

なお、この事故からさかのぼること約80年、1861年1月には、日普修好通商条約を締結し、日独の国交を開いた「オイレンブルク使節団」を本国から運んだ軍艦4隻の1隻、フラウエンロープ (SMS Frauenlob) が台風により横浜沖で沈没し、乗員44名が消息不明となっている。


横浜沖で沈没したフラウエンロープ (SMS Frauenlob) (6)

奇しくも日独修好の起点(1861年)と、その中間点(1942年)において、横浜では、悲劇が生起したこととなる。

横浜港での爆発事故から辛くも生還したドイツ乗員約100名は、住居である艦船を失ったことから、箱根の旅館において、終戦までの日々を過ごすこととなった。彼らは、空襲による火災発生に備えた貯水池の造成を自発的に実施し、完成した貯水池は、阿字が池と名付けられ、地域住民から感謝された。

② 潜水艦による交流

1943年に入り、「封鎖突破船」の運用が中止され、インド洋におけるドイツ海軍潜水艦の活動が増すこととなった。逐次、ペナン方面に来航し、多い時には、ペナンの埠頭に日本の潜水艦が3~4隻、ドイツの潜水艦が4~5隻係留され、情報交換を目的とした作戦会議、乗員同士の交歓行事、出入港時の礼式等が行われ、インド洋を舞台とした日独潜水艦による連合作戦が行われていた 。(7)

1943年4月28日には、インド洋においてドイツ潜水艦U-180と伊29号潜水艦が会合し、ドイツ潜水艦からは、小型潜水艦の設計図、対戦車特殊弾等が送られ、日本側からは、93式魚雷1本が送られるとともに、技術者2名が移乗し、ドイツに渡った 。(8)

さらには、日独本土を潜水艦により往復する人員の移送や技術交流が計画された。
日本からドイツには、合計5隻の潜水艦が派遣されたが、往復に成功した潜水艦は、第3次派遣艦となった伊8号潜水艦のみであり、2隻は、ドイツに到着することなく沈没し、2隻は、ドイツからの帰路に沈没している。


ロリアン港における伊8号潜水艦 (9)

ドイツから日本へは、合計3隻の派遣が実施されたが、最初の2隻は、日本への潜水艦の無償譲渡という形でなされた。

1943年5月10日、ドイツを出港したU-511号潜水艦は、ドイツ海軍乗員50数名の手により8月7日、呉に到着、呂500号潜水艦とされた。この際に、ドイツ側から技術者3名が来日した 。(10)

その後、1944年3月には、前述した伊8号潜水艦によりドイツに派遣された日本人乗員の手によって、U-1224が、呂501号潜水艦としてキールを出港し、日本を目指したが、5月16日、米駆逐艦の攻撃により沈没した 。(11)

ドイツ側がこれらの潜水艦譲渡により日本側に期待したことは、ドイツ潜水艦と同程度の潜水艦を日本に建造させ、インド洋での作戦を優勢に導くことであったが、当時の日本の技術能力水準では、同等の構成品を製造し得ないことが判明し、これらの艦をモデルとした潜水艦を建造することはできなかった。他方、呂500号により来日したドイツ人技師がもたらした電気溶接技術等は日本の潜水艦建造に有益であったとされる 。(12)


「呂501号」として日本人乗員の手によりキールを出港する旧U-1224 (13)

ドイツの敗色が濃厚となった1945年3月24日、U-234が、日本への武官着任予定者、ドイツ人技師、日本に帰国する日本海軍技術士官を乗せ、キールを出港した。5月7日にドイツの降伏を知ったことから、米駆逐艦に降伏した。降伏することを知った日本の技術士官2名は、捕虜となることを潔しとせず、自殺した。ドイツ海軍は、両名の死を悼み、キールの潜水艦慰霊碑に両者の氏名を刻んだとされる 。(14)

この潜水艦相互往来により期待されたことは、ドイツ側の優れた技術の日本への供与であったが核心となる資料や機材の大半は潜水艦の沈没により失われ、往復に成功した伊8号、訪日した呂500号の輸送分のほか、シンガポールから空路、入国したドイツ人技術者の知見、帰国した日本人技術者がドイツで得た知見と携行し得た資料が日本での技術開発に活用されるにとどまった。

これらの資料は、終戦後、多くが処分されており、その詳細は、不明であったが、2021年3月、伊29号潜水艦によりシンガポールまで輸送され、空路、日本に持ち込まれたドイツのロケット機Me163Bの設計図及び取扱説明書を写真撮影により複写したものが、横須賀市で発見され、日本側が得た技術の詳細が、一部、明らかとなった。


Me163B取扱説明書 (15)

Me163B設計図 (16)

Me163B写真 (17)

しかしながら、これらの多大な努力にもかかわらず、これらの知見が戦局に寄与することは少なかった。このことは、ドイツから供与されようとした技術が、当時の日本工業力に比べてあまりにも精巧に過ぎ、精密な工作機械を必要としたので、模倣ができなかったことや、求められる生産工程や工場運営方法の日独の相違等を要因とするものである 。(18) 戦争の激化による技術開発や生産基盤への影響は、こうしたギャップを埋める余裕を日本に与えなかった。

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海上自衛隊幹部学校 戦史統率研究室 本名 龍児

本コラムに示す見解は、海上自衛隊幹部学校における研究の一環として執筆者個人が発表し たものであり、防衛省・海上自衛隊の見解を表すものではありません。

1. 山下啓治「日独連合作戦について」『波濤』兵術同好会、2004年5月、77頁。
2. Wikimedia commons蔵
3. 城英一郎著『侍従武官 城英一郎日記』野村実・編、山川出版社、1982年2月、213頁。
4. 高松宮宣仁親王著、嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第五巻 昭和十七年十月一日~昭和十八年二月十一日』中央公論社、1996年11月、260頁。
5. 石川美邦『横浜港ドイツ軍艦燃ゆ 惨劇から友情へ 50年目の真実』木馬書館、1995年
6. Wikimedia commons蔵
7. 山下「日独連合作戦について」82-83頁。
8. 同上、78頁。
9. Wikimedia commons蔵
10. 野村直邦『潜水艦U-511号の運命』読売新聞社、1956年、167頁。
11. 山下「日独連合作戦について」82頁。
12. 防衛庁防衛研修所戦史室『海軍軍戦備2』(1975年、朝雲新聞社)430頁。
13. 海人社 蔵
14. 海軍史保存会『日本海軍史(第4巻)通史第五・六編』第一法規出版株式会社、1995年、512頁。
15. 柴田一哉氏提供
16. 柴田一哉氏提供
17. 平田直俊氏所蔵、柴田一哉氏提供
18. 防衛研修所戦史室『海軍軍戦備2』432頁。